荒川静香さんといえば、フィギュアスケートが日本で人気のあるスポーツとなったきっかけを作った方。まさに日本女子フィギュア界のレジェンドといった存在です。
トリノオリンピックで金メダルを取った2006年から10年以上経過していますが、今でも日本女子選手で彼女の記録を上回った選手はいませんね。
今回はトリノ オリンピック金メダリストという今でも輝きを放つ功績を、しっかりとふり返り、荒川さんの現在にも注目してみました!
荒川静香 金メダルは女子シングル史上最年長!
荒川さんがトリノオリンピックの金メダルを取ったのは24歳56日のとき。
ザギトワが平昌オリンピックで優勝したのは15歳のときです。
10代でピークを迎えることの多い女子シングルで当時の荒川さんはベテランといえる年齢でした!
なぜその偉業を成し遂げられたのでしょう。
荒川静香 金メダルの理由、なぜ?
中学1年生で全日本ジュニア選手権(13歳以上18歳以下)に優勝するなど、「宮城の天才少女」として早くから頭角を表していた荒川さんですが、後述するように、シニアに上がってからはなかなか結果を残すことはできませんでした。
2002年のソルトレイクシティオリンピック出場を逃し、世界選手権に初優勝したのは、2004年、早稲田大学に通う22歳のときでした。
世界選手権の3週間前から指導を受け始めたタラソワ・コーチが、荒川さんの「どこか弱気だったけど、それではいつまでも進歩はない」という奮起を引き出したからでした。
そしてトリノオリンピックの出場を勝ち取り、コーチをニコライ・モロゾフにかえます。
トリノオリンピックでの戦いを荒川さんは著書でこう振り返っています。
SPが終わって、私は3位でした。(略)SPで1位だったサーシャ・コーエン選手、2位だったスルツカヤはすでに金メダルに王手をかけていて、優勝以外、眼中になかっただろうと思います。
特にスルツカヤはソルトレイクシティ五輪で、目の前の金メダルを惜しいところで逃していました。金メダルと銀メダルの違いというものを、誰よりもわかっていたのでしょう。だからこそ、今度は絶対に金が欲しいという思いが強かったに違いありません。経験があったがゆえの、プレッシャーだったと思います。
コーエンもソルトレイクシティ五輪では4位で、惜しいところでメダルを逃した。だから彼女も、メダルがあるかないかの違いの大きさを、身にしみて感じていたはずです。
(中略)
自分の前に滑った選手の演技はまったく見ていなかったので、誰がどのような演技をしたのか知りませんでした。ニコライが、絶対に見せてくれなかったのです。でもその代わりにニコライが全員を見ていて、「指令を出すから言う通りにやれ」(笑)という指示でした。そしてコーエンが失敗した時点で、試合前にルッツのコンビネーションは3+3ではなく3+2でいいから、と言ってきたのです。
でもまだスルツカヤが残っているので、サルコウとトウループの3+3は絶対やるように、と言われました。(略)このコンビネーションはそれまで練習でもほとんど失敗していなかったので、ニコライはそれで金メダルを引き寄せたいと思っていたのに違いありません。
(中略)
彼が強烈な勝負師だったおかげで、私は順位のことはまったく考えずに、目の前の演技だけに集中することができたのです。私自身が勝負に頭がいっていたら、プレッシャーに負けていたかもしれません。
(『知って感じるフィギュアスケート観戦術』荒川静香(朝日新書))
メンタルが大きく影響するスポーツであるフィギュアスケート。
フリーの演技前にこのような駆け引きがあったのです。
ニコライ・モロゾフコーチの戦術があたり、荒川さんはショートプログラム3位から逆転を果たし、みごと金メダルに輝きました!
荒川さんのたゆまぬ努力・巧みな技術があったことはもちろんですが、試合に勝つには「ミスを少なくしてライバルより高い得点を出す」ことが重要です。
フィギュアスケートでは自分ができる最高難度の構成で挑んでも転倒があっては減点されてしまうため、難易度を落としても成功させることで加点を取りに行きます。
演技の要素を「加点で積み上げていく」スポーツなのです。
荒川さんの「コーチ選び」についてはこの過去記事でくわしく触れていますので、あわせてどうぞ。
紆余曲折していたシニアの10年間
荒川さんの一番の功績は間違えなく2006年トリノ オリンピック金メダルという快挙です。その最高の結果にたどりつくまでの道のりは、決して順風満帆ではなかったようです。
1997年にシニアデビュー後、2006年のトリノ オリンピック直後の引退まで、決して短くはない現役生活。主要な国内外の大会での功績をリストアップしてみたところ、意外にも際立つ戦績は少ないかな?と感じてしまいました。
<国際大会>
2006年トリノオリンピック 金メダル
2004年世界選手権 優勝
2003年グランプリファイナル 3位
2004年グランプリファイナル 2位
<国内大会>
1997年全日本選手権 優勝
1998年全日本選手権 優勝
このように彼女の戦績を見てみると、シニアデビュー直後は全日本選手権で優勝。その後、1998年に出場した長野オリンピックでは結果を残せず、13位に終わってしまっています。
この結果には日本のメディアでも自国開催ということで特に厳しく書かれてしまったようです。せっかくの自国開催なのに悔しく辛い思いをされたのでは、と心が痛みます。
2002年のソルトレイクシティオリンピックには、直前の全日本選手権で3位となり、おしくも日本代表に選ばれず、オリンピック出場をのがしてしまいました。
2004年の世界選手権優勝まで、ほとんど国内外の大会で成績を残すことが出来ず。長野オリンピックから引き続き、苦しい選手生活も長かったのだろうと思います。
2004年に急遽コーチをロシアのタラソワコーチに変更することになり、試合でも徐々に結果が出るようになってきました。それがトリノ オリンピックへの切符をつかむことにつながったようです。
その後、2006年のトリノ オリンピック直前にコーチをニコライモロゾフコーチに変更し、サーシャ・コーエン選手、イリーナ・スルツカヤ選手を破り見事金メダル。
同年、オリンピック後に開催された世界選手権には出場せず、五輪女王として日本中に祝福されながらの引退となりました。
荒川静香、金メダルのあの曲は?
荒川さんが選手人生で一番脚光を浴びた演技は、まちがえなくトリノオリンピックのフリープログラムでしょう。
曲はプッチーニ作曲の名曲、トゥーランドット。誰もが一度はきいたことがあるフィギュアスケートでもよく使われることが多い、代表的な演目ですね。
荒川さんはオリンピック前の2004年世界選手権でも同じトゥーランドットを使用しています。結果、見事優勝をつかみ取ったそうです。
彼女にとって一番の実力を発揮できる、勝負のプログラムだったのですね。オリンピックという一番大事な試合にこの曲を持ってくる気合いと自信を感じます。
トゥーランドットのオペラは一度鑑賞したことがありますが、中国の王様とお姫さまの物語でした。衣装も舞台もまさに中国風で、煌びやかでした。
ジャパニーズビューティであり、アジアンビューティである荒川さんは、トゥーランドットの姫役に本当にぴったりだったなと今でも思います。それはアジアの選手として、オリンピックフィギュア史上初の金メダルという結果が物語っていますね。
また、オリンピック女子フィギュアスケート史上最年長(24歳)の金メダルという記録も更新しています。落ち着いて冷静なベテランの演技が評価されたということですね。東洋の女神ということで、国内のみならず海外からもとても絶賛されていましたね。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、プッチーニはイタリアの作曲家です。オリンピックが行われたトリノは冬は雪もつもる、北イタリアの山岳周辺に位置する都市になります。
イタリアの作曲家の一番有名ともいえる曲で、地元イタリアのお客さんのハートをがっちりつかめたことは間違いなさそうです。
また、なんと開会式のなかでトゥーランドットのオペラをイタリアのオペラ歌手が歌うパフォーマンスがあったとのこと。荒川さんはまさに運命を感じざるを得なかったのではないでしょうか。
荒川静香のイナバウアー、なぜ?どんなワザ?
トゥーランドットの中でも一番の見せ場はプログラム後半のイナバウアーでしょう。
片足に体重をのせながら大きく上体を反らせたとても美しい振付です。荒川さんの柔軟性が存分に発揮された見どころですね。
このイナバウアーの振り付けはニコライモロゾフコーチ直伝のもので、今までは荒川さんの持ち技といったわけではなかったそうです。コーチからフィギュアスケートの良さをつたえるため、終盤の3秒の時間ということで用意された要素とのこと。
そのコーチの考えにとても共感し、心をこめて演技で観客につたえた荒川さんだからこそ、これだけ多くの脚光をあびる結果となったのですね。
日本中がこのイナバウアーに大歓声をあげたことを筆者は中学生でしたが本当に今でもよく覚えています。イナバウアーという名前も、なじみがない面白いひびきであるがゆえ、子どもにも覚えやすく、教室でも注目をあびていました。
中学校でもみんな真似してみようと流行っていて、何度かためしてみたことがありました。陸上で体を反らせることだけでもとても難しくて、当時スケート靴をはいたことがなかった私にはとても信じられないことでした!
2006年の新語・流行語大賞に選ばれるくらい人気となったイナバウアーは、荒川さんのまさに代名詞といえるのではないでしょうか。
もちろん本人としては、そこまで大きな話題になるとは思っていなかったかもしれませんが、「人々の記憶に残る演技は金メダル以上の目標、それを果たすことが出来た」喜びのコメントをなさっていました。
荒川静香、美しいスタイルと強いファイターとしての一面も
荒川さんが現役の頃はもちろん女性らしい柔らかさもありました。それ以上に強い心を持った芯の通ったアスリートといった印象でした。
試合や演技にかける情熱を、冷静さの中にも感じることのできる、強いファイターとして、とてもカッコ良い選手だなと思っていました!
現役を引退されてから今までは、オフアイスのスタイルを見ることがほとんどです。選手の頃と比べるとより物腰がやわらかく、女性らしさが際立っているように思います。
やはり選手の頃の試合へのプレッシャーから解放されたことが大きいのでしょうか。
衣装やおしゃれのスタイルももちろん変わっていますが、何よりお話しされる表情も全く違っているなと感じます。すらっとして背も高く、スタイルも抜群で美しい姿は昔と変わらず、本当に美しい方であることは今も変わりません。
選手時代の荒川さんもとても素敵ですが、引退後の荒川さんの方がもう少し本来の荒川さんらしさが見えているような気がしています。引退後、良い方向に才能をまた開花されたのだなと見ていて感じることが多いです。
荒川静香、現在の活動は?
現在の荒川さんはオリンピック金メダリストとして、アイスショー出演、フィギュアスケートの解説、番組キャスター、イベントやメディアへの出演、本の執筆や日本スケート連盟副会長とさまざまな分野でご活躍されています。
気になる荒川さんの活動状況ですが、公式ホームページに掲載されています。どれも気になる内容ばかりです。最新の様子が分かりやすくアップデートされているため、ここでご紹介させていただきたいと思います!
https://shizuka-arakawa.com/
プライベートでは2013年にご結婚。現在は2人のお子さんにも恵まれて、充実した家庭、子育て生活も過ごされているようです。
残念ながら今はコロナでアイスショーへの出演は減ってしまっていると思いますが、テレビの番組で荒川さんの日常生活の様子を目にしたことがあります。幼い赤ちゃんの子育てをしながら、アイスショーのためフィギュアスケートの練習を出産後も続けているそうです。
アイスショーとなると筋力の維持のみならず、ジャンプやスピンの技術の維持をするため、時間をやりくりしながら取り組まなくてはならないのでしょうね。
引退後も並たいていではない努力を続けているのでしょうか。やはりオリンピック金メダリストは努力の天才なのでしょうね。
荒川静香、その魅力を女性から見ると?
フィギュアスケートファンとして、試合やアイスショーやスケート関連番組を見ることが多いですが、いろいろなタイミングで荒川さんを見かけることがとても多いです。このような活躍は氷山の一角なのではないでしょうか。
仕事で表には見えない裏の大変さの部分も想像すると、勝手ながらとてもお忙しくされているのでは?と心配になってしまいそうです。それだけ日本のフィギュアスケート界全体に貢献されている方なのだろうと思います。
選手としては最高の実績を残し、その後素晴らしいキャリアをつみながら、家庭もしっかりと築いていらっしゃり、同じ女性としてとても憧れるばかりです。後輩の女子フィギュアスケーターのロールモデルであることも、間違えありませんね。
今年もしもコロナが終息にむかえば、プリンスアイスワールドでのアイスショーがまた再開されることも十分あり得るのではないでしょうか。今まで荒川さんの演技は直接ショーでもお目にかかったことがなく、残念に思っています。
再開されるようであれば、元金メダリストの美しい演技を堪能すべく、ぜひ実際に足を運んで見に行ってみたいなと思います!